昭和44年11月26日
御理解第40節 重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。
大変これはまぁいわば解釈に苦しむ御理解だと思いますですね。重い物を担いでいるか、負うておれば苦しい。それ、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め、勤めするがよい。家業の合間合間に、信心はさせてもらう。みなさんがそうつめてから信心をせんでも、家業の合間合間に、暇な時暇な時に(すれば?)、信心は別に荷物になるものではないから、楽じゃとこう。そうゆうふうに、こう頂く、そうゆうふうに感じられる御理解ですけれども、実際そうではないと思うですね。信心は、楽じゃということを、信心をしておれば楽じゃということだと思うんですよね。信心しておれば楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。(ふるいことは?)家業そのものが信心なのですからね、いやだから信心を勤め勤め、家業をするがよいということでしょうね。その前の『39節 此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。』とハッキリ言っておられます。金光様の御信心は家業そのものが信心だと。ですから、ここで家業と信心がこう離れたのでは、信心じゃないです。ここで40節で家業勤め勤めするということに、これは家業ということは、そのまま家業が信心だ。ね、家業がそのまま信心だ。だからね、信心を勤め勤めするがよい。すと、非常にこう楽なものになってくるようですね。なるほど、それが楽だと。
なるほど形の上に重いものを担いでも負うてもいないのだけれども、心に例えば重いものを持つことでございますかね。信心(ならべつに?)ね、重たいものを持つといったようなことじゃありませんけれども、心に例えば難儀を感じておるとすると、それはやっぱり重たいものであり、または責任を感じておると、やはりそれは重たいものである。ここんところをですね、信心は楽じゃと、これは金光様の御信心で始めてそれが言えるのだと、私は思うんです。他の信心では信心は楽じゃとは言えないです。何かと言うと、親のことは子が願い、子のことは親が願い、といわゆるあいよかけよでの助かっていく道であり、ね、そこんところにです、私は信心は楽じゃと、いわゆる金光教の信心は楽じゃというふうになるのじゃないでしょうかね。もちろんここでお道の信心は信心とこう言うておられるわけですがね、なるほど、悪いならば一つのものを例えば持っておりましても、自分一人で持っておるのじゃないのだと。神様が持って下さってあるんだと。例えばそれを具体的な表現で、教えておられる中に、氏子の苦しみは神の苦しみじゃと。氏子の喜びは、また神の喜びじゃと。これはあの実際の上にですね、大変な難儀なところを通っておる場合でもここのところが分かるとですね、、非常に楽になるんです。私がそのような難儀、本当に難儀苦労しております。けれども私が難儀苦労しておるより以上に神様が悲しんでござったり、難儀苦労して下さってあるんだと、思うたら神様、あいすいませんということになってくるとですね、自分の難儀がもう非常に軽い、楽なものになってくる。いやそれはもう苦しみといったのでなくて、有り難いものになってくるんです。これはもう信心の実際の問題、またはその信心の感情と申しますか、というなそうゆうなもんだと私は思うのです。
これは私の体験からそれが言えるです。ね、もう(ひっぱく、ひっぱく?)すべてのことが、もうこんより苦労があるかと思うような、やはり苦しいときでも、でもですね、このくらいの苦しみじゃない、私がこんなに苦しんでおるということ、神様はまだまだ大変な思いで苦しんでござるのだ、苦しんでおって下さるのだと、この実感して感じられますとね、ただ神様が信用せん、神様のご苦労かけたりすいません、ということが神様有り難うございますになってきて、現在しておる信心、現在しておるその苦労をですね、苦労でなくなってくるんです。むしろそれが有り難いものになってくるのです。だから苦しいことでない、楽なんです。『神に助かり、氏子も立ち行く』私共が立ち行くときです。ね、神様も立ち行って下さってある。神様も助かっとって下さる。ね、ただ私共が苦しいことを神様にお願いして楽になりたい、楽になりたいというのではないのですよね金光様の御信心。神様にお願いをして、楽になりたいというのじゃない。私共の苦労、そのまま神様の苦労だと頂かせてもらうときですね、神様すみませんということになる。
まぁ大変難しい意味で信心は楽じゃというふうに、まぁ申しましたですね。けれども、体験してみて分かるんです。ここんところ。家業を勤め勤めするがよい。いわばそれぞれの仕事を持っておるから仕事の合間合間に、まぁお参りをせよというふうに聞こえますけども、ここんところはそうではないと思うんです。それを39節、その前の( ?)から頂きましたところからです、ね、此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。家業を勤め、家業そのものが信心であるというところに、お道の信心の特色があるんですね。ですからそこんところを、まぁそうゆうな表現をされます。信心すなわち家業だと。この頃、青年会のここでの大会があったときの、テーマもそうとは反対のテーマにしておりましたですね。家業の中にある信心と、というような確かテーマだったと思います。だから家業の中に信心がある間は、けして楽じゃないですよ。やはり家業は家業で(ついいっぱい?)しながら、信心せんならんのですから、これは苦労ですが。ね、人前の仕事をするともや人が8時間仕事するときは自分も8時間仕事をせんならん。そしてまたお参りせんならん。ね、(おのずと?)信心だけは苦労と、やっぱ苦労になる。ところがそうじゃなくて家業そのものが、信心だといたしてまいりますとね、楽なことになりますよ。
信心は勤め勤めするがよい、家業は勤め勤めするがよいとおっしゃることが、そのまま信心は勤め勤めするがよい。もう家業と信心と一体になっておる。そこからね、どのようなことが、これもまた体験しなければ分からないことです。ね、まぁ例えて申しますと、夜休ませて頂くと、(しんじゃ?)が日々に、の、日々はさらだとこう、さらな気持ちがなかれば信心はできません。だから朝目を覚ますときに、さらな気持ちになろうということは難しいです。やっぱり眠たい、苦しい。ところがです、ね、いわゆる家業そのものが信心、勤め勤めしておる、例えば前の晩休むとき、その休むときがもうすでに信心なりきっておる。朝目が覚めるところから信心じゃない。前の晩休むところから信心になっておるから、有り難い目覚ましのおかげをいただけるから楽です。少しは楽ではないものが残っておったにいたしましてもです、これも私の場合です。眠たいなと例えば思ってもです、私は最近控えに御祈念前にしばらく控えさせてもらう、もうそれが有り難い、楽しいものになんです。
だからもう私だけで味わう控えの雰囲気というものを思っただけで、目がパチっと覚める感じがします。これは本当ですよ。だから体験してみなければ分からんです。ね、ですから皆さんも朝の御祈念にお参りをするというときには、前の晩からちゃんと準備がでけてある。心の準備が。イライラしたりモヤモヤしたりとして眠るようなことじゃでけん。とにかく休ませて頂くときもです、例えていうなら夜の御祈念なら夜の御祈念に、今日もおかげ頂いて有り難し、という有り難いという気持ちで休ませてもらう。だからもうその通り体験です。そうゆう気持ちで休ませてもらう、朝の目覚ましのおかげが、清々しいものになってくる有り難いものになってくる。ね、けれどもやはりそこに人間、人情がでますから、はー夕べは何時間しか寝とらんからと思うて、やっぱり眠くもありきつくもあるけれども、お広前にお引きよせを頂いて御祈念をさせて、御理解を頂く、あのひと時のことを思うただけで目がパチっと覚めるということになってくるんじゃないんでしょうか。ね、はーこの(苦しかったための?)、眠たいとにお参りをせんならん、信心とはもうなんと苦労のことじゃろうか、と(くろはなれとらん?)。ね、いかに家業を勤め勤めしなければならないかということが分かりますよ。もちろんここの家業というのは、信心を勤め勤めしておらなければならないかということなんです。
ね、それは夜休ませて頂くまで勤め勤めしておかなければならん。もしここに、ね、心配事やら悩みやら苦しみが残っておるようなことではダメなんだ。ね、それを例えばなら、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さといったようなです、ね、一日をもう(全体?)が信心なんだ。昼の忙しさの中にも信心がある。だから(くにち?)も十二分に御用にお使いまわし頂いたことが有り難しとして、お礼の御祈念に例えば出てくる、できる、さあ休ませて頂こうぞ、というときも心の中に有り難い思いでしんにつかせてもらうことができる。だからそれこそ体験です。そうゆう気持ちで休ませて頂いたら、なるほどそこにおかげがある。どうゆうおかげか。朝は本当に清々しい目覚ましのおかげを受けられるという体験がある。おかげがある。信心というのは、そこに本当に体験、やはり一つの答えというのがですね、有り難いという答えがでてくるところまで信心なのですから、それはもうだから体験しないものには分からないのです。信心は楽であるということが。
はー本当に金光様の信心っちゃ毎朝毎朝朝早くから参らなような、とても私共でできるこっちゃないと、まあ信心のないものは言います。また思います。なら本当に信心をさせて頂いておるものは、こげなん有り難い信心を信心のない人は分からない。ね、もう(しょうがない?)分からん言うて聞かせてもしようがない。分からんのだと。私は苦しいから参りよるとじゃない。有り難いから参りよるということがです、分からん。ね、苦しいから参っとって( ?)やっぱり、これはやっぱり信心、信心が重荷、その苦労そのものが重荷になっておる。ね、同時に例えばもしなら、今度は苦労をお互いが難儀というものを持っておる、めいめいが。その難儀を持っておる、心配を持っておる、心配があるから信心しよる。難儀があるから楽になりたいと思って信心しようということであってもいいですね。
ね、それをちょっと手前のことになります、今私が申しました。少し手前のところ。やっぱりだからこそお参りができておるという人もおられるんですよね。ところがその、金光教の信心には、御取次ぎを頂いて、ね、ということになってある。そうゆうシステムになる。ね、御取次ぎを頂かせてもろうて、ね、ご無礼しました。御取次ぎを願って、御取次ぎを頂いていくという、そうゆういわゆるしきたりというものが、お道の信心の中にあるわけなんです。ね、御取次ぎを願って、御取次ぎを頂いていくということ。ここんところが、段々とお取次ぎの働きといったようなものが分かってまいりますとね、どんなに難儀を持っておっても、心配をもっておっても、それこそ重い荷物をかろうておるような思いがするという思いであっても、御取次ぎを願うところからです、ね、その荷物をここに預けていくことができる。ここにおいていくことができる。ね、そして頂いて帰るものは、御取次ぎを頂いて帰る。んなら御理解を頂いて帰る。はー自分の思い違いであった、自分そうじゃなかったと、分からせて頂いて、神様に心ゆだねて、心安らかに帰っていくことができるという、そうゆういわばシステムなんだ。金光教の信心のおかげのいただか、現れ、おかげを頂くということはそうゆうことなんだ。
(なるでしょうが?)それを、今度はそこまで分かってない人がです、その難儀、苦労、心配なら心配をお願いをするけども、やっぱり今度はお取次ぎを頂いて帰らんから御取次ぎを願ごうただけだからまたそのお取次ぎを願うたことをまた持ってくる。だから難儀なんだ。ね、どんなに心配があっても、はいはい、親先生がそうゆうて引き受けて下さった。そしてその代わりに今度はお取次ぎを頂いて帰る。(いわゆる?)御理解を頂いて帰る。さぁその代わりに今日からの生き方、あり方をこのように改まめていきなさいよ、と。こうゆう道がいからこうゆう道を歩きなさいよと、だらかそのことに専念することだけでいいのです。そこにはまた体験しなければ分からないというおかげがです、これは決まったもんじゃない。そん時そん時によって違うけれども、夢にも思わなかったおかげがその向こうにある。ね、そこんところが御取次ぎを、お取次ぎを願うて、そしてお取次ぎを頂いて帰る。ここんところがやはり金光教の(どうだんじょう?)でもまたあると、ね。普通で言う(とうにんさん?)というのとは違う。ね、金光様の先生は。ね、お取次ぎ者である。神様へ難儀をお取次ぎ、氏子の難儀をお取次ぎを取り次いで、神様の思いである神様の願いを氏子にまた取り次ぐというところなのだ。ね、ですから信心は楽じゃとこう。
ね、だから私共の信心を楽じゃとゆうふうに頂けないとするならです、あ、ご無礼。やはり自分の難儀、苦労というものを感ずるならです、まだ本当にスッキリとしたその、お道の信心のシステムが分かってないと言わなければなりません。そしてまたそこを信じてないと思わなければなりません。ね、重いものを負うていうか、担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。これをただこの通り頂いたら、んーそうじゃないやっぱり信心も楽なもんじゃない。信心もやっぱ難しかということになるんです。すと、( ?)嘘のように。ただ気休めにおっしゃっとるような御教えになってくるけども、決まった私がずっとお話申しましたところをです、理解してまいりますと、なるほど信心は楽じゃということになる。ギリギリのところは、家業を勤め勤めするがよいというのは、自分の仕事を方側に信心をしていけということではなくて、家業そのものが信心だと。だから信心を勤め勤めするがよいということになるのです。ね、(ならです?)そこに例えば楽じゃと。
家業即信心ではなくて、信心即家業だということになるのです。例えて今申しますとね、例えばよ、ね、幼稚園の子供だって毎日朝7時なら7時に起きて、8時なら8時に行きよりましょうが。幼稚園の子供だってですよ。しかも降ってもてっても日曜以外は行きよるでしょうが。そのように見やすいものだと信心ちゃ。それば難しいっちいうならもういよいよつまらん。幼稚園の生徒よりもまだつまらんということになるわけなんです。けれどもその信心の、を例えばお参りならお参りを、修行なら修行をクルっと別なものにするところに難しさがあるんです。ね、もう小学校ぐらいになりますと、朝うちに新聞配っといてから学校行く( ?)がありますよ。毎日降っても照っても。ま新聞配達ということを申しましたが、なら例えば新聞配達を行としとる人です。ね、これはやっぱりまぁ今はどうかしらんが、私も新聞配達したことがありますが、ね、やっぱり3時30分か4時に起きて新聞を取りにいかないかん。そして配る。これも降っても照っても壊されない。難しいことじゃなかったんだ。家業だから。ね、信心もね、家業ということになってきたらですよ、難しいことじゃないですよ。信心と家業が一つになったら。
はーあの人は本当に特別の信心ができよる。ね、(とくしん?)の人じゃと。というと、そうゆう人得心の人に大変例えば私ならあげなん真似はでけんというのをです、信心と家業と( ?)れておるから、だから得心というのじゃない。もうその人達は信心そのものが、いや家業そのものが信心になっておられるから人から得心と言われ、自分としては得心と思っちゃない。もう当たり前のこととしてでけてきよる。ね、だから信心は楽じゃと。ね、お道の信心のその根本的なところをですね、いわゆる神も助かり氏子も立ち行くあいよかけよでの、助かり合いというものがです、神様の願いであるのですから、私共もそこんところを願いとする信心。ということになってまいりますと、自分がどんなに苦しかっても、ね、どんなに悲しかっても、神様が悲しんでおってくださるんだ。私よりが私が苦しんでおる以上に、親神様は苦しんでおって下さるんだと分からして頂いたら、その苦しかったのが段々有り難いものに変わってくるです。神様すみませんということになってくるです。これはそこに実感する。そこに通ったものが(やまからん?)。
そうゆう例えば悲しい、苦しいことですらがです、有り難いものになってくるから楽でしょうが。ここんところもやはりこれは体験したものでなかなきゃ分かりませんもん。今私が言うところは。私共もそうでしたもん。どんなに難儀でどんなに苦しいときですです、神様の思いが少し分かる。神様の思いを少し触れさせて頂いたらです、もうその苦しさは苦しさではなくなって、有り難さに変わってくるです。ね、これはまぁ難しい意味合いにおいての楽なんですね。大変難しい楽ていうのを本当に、なんていいますかね、極楽というてもいいかもしれませんね。地獄のカバン中にあるような苦しみであったのが、ね、そこんところをちょっと通り抜けますとそこには楽の世界がある。ね、だから色々な意味で信心は楽じゃというところまで信心を進めていかなければならなんと思うですよ。
41節に『信心は話を聞くだけが脳ではない。わが心からも練り出すがよい』と、またその前39節には『此の方の行は火や水の行ではない家業の行ぞ』と、例えば前後の御理解を頂いてです、この40節を頂きますと、ここ分かってくるように思います。ね、家業を勤め勤めするがよいということ、その家業そのものが信心であるということを39節で解いてあるし、またならここんところ40節なら一遍通り読ませて頂いただけではです、さっぱり分からない。なんかに教祖様は気休めに言ってござるごたる。(いっさいしん?)教祖様は楽じゃとおっしゃるけども楽なこっちゃないというふうにしか頂けんのである。けども41節頂いて、話を聞くだけが脳ではない。わが心からも練り出すがよい、というようにです今日は私の信心から練り出した、お話を元に聞いてもらった。だから練り出させて頂くとここのご理解がです、なるほど信心は楽じゃということになってくるのですよね。どうぞ。
大坪 真理子